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ジャニオタとアイデンティティー

「"わたし"とはどんな人間ですか?」と聞かれたときに、みなさんはなんと答えるだろうか。

 

私は真っ先にこの答えが浮かんだ。

「中島裕翔くんのファンです。」

 

 

 

 

 

アイデンティティーという当初聞き慣れなかった言葉も2016年ともなればすっかり定着し、「自己同一性」や「私らしさ」などと訳され、日常でも頻繁に使われるようになった。

反面、誰が提唱した概念なのか、実際どういったものなのかについては関心が低くなってしまったように思える。

 

アイデンティティーとは、アメリカの心理学者、E=H=エリクソンが初めて作った概念である。アイデンティティーという単語は動詞の「identify(同一の物とみなす、固定する)」や名詞形の「identification(同一視、同一化)」からきており、この2つの単語は「あるものと他のあるものが同じである(こと)」というのが大まかな意味だ。identificationは身分証明と訳されることを知っている人も多いだろう。文字通り「自分とは何者なのか」を証明するものというニュアンスも加わる。これはここにいる自分が戸籍などの公的に証明される自分と"同一である"というところからきていると思われる。

さて、英語の意味を汲んでアイデンティティーという概念がぼんやりと浮かび上がってきたのではないだろうか。ここまでちょっと難しかったという人も、同じ単語が何度も出てきているのは分かるだろう。そう、アイデンティティーを理解する上で重要なキーワードになってきそうなのが「同一」である。

 

しかし単に同一といっても、アイデンティティーの意味する「同一」には不変性と連続性がなくてはならない。言い換えれば、空間的同一性と時間的同一性である。

例えば、アクロンさんは生活する中で、母親に対しては娘であり、妹に対しては姉であり、先輩に対しては後輩であり、後輩に対しては先輩であり、上司に対しては部下であり、友達に対しては友達であり、フォロワーさんに対してはアクロンさんという、その場その場の役割、言わばキャラクターがある。間違っても先輩に対して妹に言うように「○○買ってきて〜」などとは言わないだろう。

けれども、この中で一貫していることは「私は私である」ということだ。キャラクターに違いはあれど、根本的な「私は私」ということは変わらない。これは不変性、つまり空間的同一性を表している。どんなにツイッターアカウントがあったって、わたしはわたしなのだ。

次に「連続性」であるが、昨日も今日も明日もわたしはわたしであり続ける。それを証明するのはとても大変なことだ。生物学的に言えば、人間の体は日々体細胞分裂を繰り返し新しいものになっていく。そんな中で変わらないもの、連続的なもの、時間的に同一性があるものを探すのはとても難しい。しかしそんなものこそがアイデンティティーと成り得るのである。ちなみにアクロンさんは昨日も今日も明日も裕翔担だ。

 

また、アイデンティティーはよく「自己同一性」とだけ訳されるが、アイデンティティーは「自我同一性(ego identity)」と「自己同一性(self identity)」に分けられる。更にこの自己同一性は「私が思う"わたし"とはなにか」と「周りが思う"わたし"とはなにか」を意味する「個人的同一性」と「社会的同一性」の2つから構成されているのである。

 

エリクソンは、この個人的同一性と社会的同一性が一致しているとき、最もアイデンティティーが安定しており、はたまた個人的同一性と社会的同一性が大きく相違した場合、「自己認識の危機(アイデンティティークライシス)」が起こり、アイデンティティーが揺らぐと論じている。

 どういったことかというと、アクロンさんがいくら「私は裕翔担だ!」と思って自分を裕翔担だと定義していたとしても、周りから「いや雑誌買ってないしテレビ追えてないし本高くんの話ばっかりしてるくせにどこが裕翔担だよ」と言われてしまうと、「そっか…私裕翔担って名乗れるほどじゃなかったのか…じゃあ私ってなんなの?」となってしまうのだ。

 

ここまで主にアイデンティティーの意味を同一性という側面から捉えてきたが、実はアイデンティティーには独自性も必要不可欠である。例えば会社や学校で「あなたはどんな人間ですか?」と問われて、「私はジャニーズオタクです」と答えれば、様々な反応があるのはともかくとして、ジャニーズが好きな人間として覚えられるであろう。ジャニーズがテレビに出ていれば、昨日見たよと声をかけられるかもしれない。ジャニーズオタクは私らしさに成り得る。

 

ではコンサート会場で同じ回答をしてみてはどうだろう。

「私はジャニーズオタクです」

当たり前である。コンサート会場にくる人間なんかみんなジャニーズオタクなのだ。そこには大量のジャニーズオタクが集っており、コンサート会場において「ジャニーズオタク」はなんの代わり映えもない称号である。「ジャニーズオタク」は私らしさに成り得ない。

だからきっとジャニーズオタクはコンサート会場でこの質問に対し、「○○担です」と答えるだろうし、ともすれば、「○○出の○○担です」や「○○くんのこんなところが好きな○○担です」や「これから最前に入る○○担です」など、情報を付け足してくるだろう。(なんなら聞かずともパクリ禁止の4連団扇で独自性を出してくる。)

 

まとめると、アイデンティティーには同一性と(周辺環境の中での)独自性が必要なのだ。

 

 

 

ある程度アイデンティティーへの概念が分かったところで、冒頭の質問へ戻るとしよう。

 

 

「"わたし"とはどんな人間ですか?」と聞かれたときに、みなさんはなんと答えるだろうか。

 

私は真っ先にこの答えが浮かんだ。

「中島裕翔くんのファンです。」

 

果たしてこの「中島裕翔くんのファン」というものは私のアイデンティティーになり得るのだろうか?

 

まず同一性の面から考える。

上でも述べたように、どんなキャラをを演じていても私が裕翔担だということは変わらないし、私が昨日も今日も明日も裕翔担であることも変わらない。一見、同一性の面はクリアしているように見える。本当にそうだろうか。

 

私はツイッターでも似たようなことを言ったのだが、結局ジャニオタが愛しているのはタレント本体でなく、そのタレントの好きな部分、言わば自分にとって都合の良い部分だけを集め上げた結晶なのだ。そして同じような結晶を持つ人たちで集まり、同じような愛で方をするのである。言い換えれば偶像崇拝と同類であり、勝手に形作ったものを崇拝しているに過ぎないのだ。

 

私が好きな中島裕翔くんは、16歳で、女ネタが(公式には)出てなくて、黒髪で、まだ一度も髪を染めたことが無くて、スキニーが似合って、馬刺しが好きで、胸筋が無いことを気にしていて、タップが上手で、ムーンウォークが綺麗で、ドラムはちょっぴり下手で、泣き虫だけど、がんばり屋さんで、くせ毛を気にしていて、ストレートパーマをかけたことを雑誌で報告してくるとってもかわいい男の子、である。私はそんな中島裕翔くんの担当をしてきたつもりだ。けれど、この私の好きな裕翔くんの特徴は、もういくらなんでも22歳の裕翔くんとはかけ離れている。いくらジャニオタが偶像崇拝しているとはいえ、一般的に裕翔担と呼ばれるのは今の裕翔くんを愛する人たちだ。正直なところ、吉田羊(42)と7連泊した中島裕翔くんを今まで通り崇拝することはできない。でも、私が好きな裕翔くん像を諦めることもできない。

裕翔担という表面的な同一性はあるものの、気持ちの面で、時間軸において大きな違いが出てきているのが実情だ。また、周りからこの現在の私が(気持ちを含め)裕翔担と認識されなければアイデンティティーとしての確立は難しい気もする。

 

次に、独自性の面から考える。

2014年ぐらいまで、裕翔担、JUMP担というのは希少種であった。Hey!Say!JUMPのオタクというだけでもの珍しがられ、「なんで中島裕翔なの?」とまで言われ、アンチに叩かれる空気の読めない中島裕翔くんのファンなぞ、独自路線まっしぐらの勢いだったのである。ところがどっこい2016年、「Hey!Say!JUMP好きなの?私も最近伊野尾くん気になってる!」など話の種になる始末である。裕翔くんのことが好きと言っても驚かれない時代がやってきたのだ。

こうなってくると、裕翔くんはアイドルだよ派、裕翔くんは俳優だよ派に分かれたり、前髪ありなしで分かれたり、さらに細分化された独自路線を進むしか無いのだが、ツイッターの海というものは恐ろしく、自分が言いたかったような言葉は既に漂流しているのが常。もはや自分がツイートするような言葉など無いのでは?とさえ思うときがある。

独自性とマイノリティーは紙一重なのだなぁと改めて感じた。あれほど熱望していたマジョリティも、いざなってしまえばただの大衆なのだ。よく見る「キチガイイッタラー」も、大衆の中でなんとか独自性を出そうと必死なのだろう。しかし「変わっている自分」「ちょっとおかしな自分」をキャラにするのは非常に簡単な独自性の出し方であるため、もはやそれも大勢いる中の一人と変わらない。珍しくない。原宿系ファッションだって、もう個性派ではないだろう。

 

少し話が逸れたが、JUMPの人気とともに私の、ひいてはJUMP担の独自性は消失してきていると言っても過言ではない。嵐を見れば分かると思うが、「嵐が好きな女の子」なんてどこにでもいるのだ。JUMPが人気になればなるほど、自分はどこにでもいるような人間になるのに、どうして人気になるのを応援できようか。誰だってどこにでもいるような人間になりたくない。これといった独自性など無い平々凡々な自分に、ちょっとした独自性を与えてくれていたのが中島裕翔くんだったのだ。

 

さて、「私は中島裕翔くんのファン」ということについて同一性と独自性の面から述べたが、ここまで長々と読んでくださったみなさんは「アクロンさんが裕翔担だということはアクロンさんのアイデンティティーだよ!」とお思いになるだろうか。思わないだろう。そこまで思ってるなら担降りしろと、そう感じた人も少なくないはずだ。

 

しかし私は声を大にして言いたい。

裕翔担であることは私のアイデンティティーである、と。

 

いくら「デビュー出以降は新規」のJUMP担とは言え、私もそこそこな期間裕翔担をやってきた。裕翔くんに思い入れがなくなったとしても、裕翔担な自分に思い入れはある。

また、裕翔担であることがアイデンティティーではないとしたら、私のアイデンティティーとは、私とは一体なんなのだろうかと、その辺に思考がぶっ飛ぶぐらいに私には他に何もない。空っぽだ。きっとアイデンティティークライシスが起こる。ジャニオタじゃない自分が想像できないのだ。

こうやって書くとジャニーズ以外楽しみが無い残念な人間に思われるだろう。実際その通りだし、こうならないほうがいいに決まってる。自分のアイデンティティーぐらい自分の中から調達したほうがいい。でも私にはもう裕翔担であることぐらいしか残されていないのである。周りから見てどんなに気持ち悪くても、自己認識を失うことより裕翔担としてオタクを続けていたほうが精神的にマシだ。新しいアイデンティティーを確立するまで、「裕翔担のわたし」にしがみついているより他はない。

アイデンティティーの確立には他者による承認も重要だが、そんなものは仲が良い人にそう思ってもらえていればいいので、言ってしまえば不特定多数の人間の戯れ言なんてなんら関係はないのだ。 友達に認めてもらえればそれでいいのだ。

 

裕翔くんという偶像に甘え、自分を、自分らしさを見つめてこなかった結果、もはや担当のためというより、自分の存在証明のためにジャニーズを応援する形になってしまっていることはとても侘しいが、裕翔担であったことで経験したことも楽しかったことも沢山あるので、これはこれで致し方ない気もする。このブログを読んでいる未来あるジャニオタの皆さんは、くれぐれも自分のアイデンティティーを担当を応援することに見出さないようにね。

 

私は、わたしがわたしであるために裕翔担続けます。 

裕翔担の私がわたしなので。

昨日の私も今日の私も明日の私も裕翔担です。

 

 

 

 

最後に。

こんな盛大に気持ち悪いブログを書くきっかけになったのは間違いなく吉田羊さんあなたのおかげです本当にありがとうございました^^

毎日CMで見てます^^

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぶっちゃけアイデンティティーの説明とかパラパラ本読んだだけの付け焼き刃だし、いつも何日もかけて書くブログを勢いで数時間、わりかし適当に書いたので整合性が無いところも多々あるとは思います。万が一この分野に関して本職の方が見てらっしゃって気分を悪くされたらすみません。

 

 

おわり。